昭和四十五年七月十五日 夜の御理解


 今日、一時の御祈念の後に、福岡の高橋さんと二人でお話をした事ですけれども…今度の私共、東京行きの前後の事から又、あちらへ参りましてからの神様の一分一厘の間違いないというか、もうお天候の事は言うに及ばず、万事の事がタイミングの素晴らしさという事を五日間「間違いないなあ、間違いないなあ」とこう顔を見合わせるような毎日でございましたんですけれど、「果たして高橋さん、ああいう間違いのない神様のお働きの中に私共が動かせて頂いたんだけれど、みんなひとつ感動がないようだねえ」と私が申しましたら「もういつもの事ですけん、当たり前んごと思うとりますよ」とこう言うんですけどね。私は本当にその感動が私、信心生活の原動力にならなければならんと思うんですね。こういう間違いのない神様のお働きの中に御守護を受けておる、その中にいろんなあんな事あり、こんな事があっているんだという事ですよね。
 今日もお昼の奉仕をさせてもらっておる時に【  】の北川さんがお参りになりました。あちらも耳が遠い、私も耳が遠いもんですからその今日は淀菊の何とかと言いなさいますもん、あそこで御理解を頂かれよりましたから「ああ、今日の御理解の事を言いよんなさるばいな」と思うてから…。今日の御理解が「淀菊」というさんずいに定まるというですね。あの御理解でした、ですから「今朝の御理解の事ですか」と言いましたら「いいえ、あの淀菊のね、新しい種がだいたいは生えんとに今年は生えてからきれいな花が咲いとるけんで、一本婆しゃまんとこに入れてもらおうと思うてから、苗を持ってきとる」と言いなさる、という事でした。「ほーそげな事ですか、今朝からこげな風でね、淀菊の御理解を初めて頂きましたが、又淀菊の花やら根っこのまま頂いたという事も今日が初めてでしたが、神様の何か知らんけど恐ろしいごたる自然とのつながりというか、働きを感じますねえ」と言うて、こっちは分かんなさらんけん私だけがそう思うたんです。ですから、そういう本当に間違いのない、なんとはなし、自然とのつながりというか働きを、ここの信奉者のすべての人が受けておるんだという事ですね。それが、その当たり前のようになってくる時に、いわゆる喜びも感動もないといったような事では相済まん事だと、こう思いますがね。せめてそういう間違いのない働きをキャッチ出来れる、生き生きといた信心ぐらいはさしてもらわなければね、そういう間違いのない神様に対する働きがね、自分の身の上にも頂いていっておる、その事のお礼を生き生きとした心で申し上げなければ相済まんなと。これはそう言うておる私自身もです、間違いないのは間違いないなと言いながら、やはりその感動が段々薄れていきよるのじゃなかろうかとさえ思う。いわゆる、おかげの頂きすぎですよね。そういうようなその事がもう当たり前の事のようになってきよるという事に、少しこれは、と恐ろしさというかこんな事じゃいけないなというものが必要である。いわゆる反省をさしてもらわなきゃならんとこじゃないかという風に、今日は思わせてもらったんですけどね。まあ、どんなに考えても、偶然というてしまやそれまでですけども、そういうおかげの中にありますとです、神様の働きの方が先に…先行しておると申しますか、神様はこんなに思うておって下さるのに、こちらの思いが足りない事を痛感致しますですねえ。どうぞ。